気功と量子的エネルギーフィールド(その2)

DNA20101203.jpgのサムネール画像気功というジャンルで表現される、生命エネルギー体系にも、このエネルギーフィールドの考え方が存在しています。

気とは、この世にあまねく存在する生命エネルギーであり、これが生命活動の源であるといわれます。

気功というと、気を集めたり、外に出して他の人に与えたり、ということをイメージすることも多いのですが、気功を続けていくと、気は集めるものではなく、「そこにあるもの」となり、気は与えるものではなく、「そこに流れるもの」として感じられてきます。

気功の初期の段階では、気を感じ、それを意のままに操る、形を変え、方向性を変える、といったことをやっていくことがあります。

ですが、気は本来、自然のままに流れるものなので、ひとたび気を感じることができるようになると、気について意識することからは離れて、今度は、気のフィールドの中にたたずむことに注力していくのです。

このときに感じる、自分を包む気のフィールドは、先述の「聖なるマトリックス」と呼ばれるエネルギーフィールドに近いものなのではないかと私は考えています。気功で扱われるエネルギーは、多くの場合、生命エネルギーに近い、物理的なものです。

肉体を構成したり、生命力を維持する、肉体が動く原動力となるようなエネルギーを扱うのが気功であり、その理解や実践を通じて、より精妙なエネルギーを含む、宇宙的エネルギーとの合一を成すのが気功の目指すところだと思います。

自分や自分の周りを取り巻く気、エネルギーのフィールドを感じるようになると、その大きな流れや、流れの中での自分の存在をよりはっきりと感じるようになります。

自身が物理的に存在すること自体が大きなテンションであり、自分のあり方が周囲のエネルギーフィールドに常に影響を与えているということを体感するようになります。

テンションというと、幾分緊張感のあるような印象があるかもしれませんが、実際のところ、エネルギーフィールドの中に人間の意識が存在するということは、まるで水面に小石を投げ続けてそれが波紋を描き続けているように、意識があること自体がエネルギーフィールドに影響を与え続けているということなのです。

気功における心身合一とは、自分の意識が創り出すバイブレーションと、自分の周りの物質が創っているバイブレーションがバランスよく交じり合う意識のポイントを見つけ、調和を体現することであるといえます。

この、周囲と完全に調和しているとき、意識は軽く爽やかで体内は滞りなく気が流れ、主張する自我はどこにもなく、ただそこに心地よく存在する、といった感覚になります。この感覚こそが、人間が生まれついて持っている特性であり、あらゆる生命が体現する喜びなのではないかと私は思います。

そのように心地よく調和した感覚を知ってしまうとそこから出ていくのが億劫になってしまうのではないか、という疑問も生じます。確かに、その喜びは、他に代えがたいものであるかもしれません。

ですから、そこから離れずに、その感覚を味わい続けるのも、可能性の一つですし、そこから更なる喜びを探求することもできるでしょう。あるいは、その喜びを別の形で表現することで、周りとシェアするのもよいと思います。

どれも、その人の本質が開花し、顕現する方向性を持つものならば、よいように思います。
大切なことは、より多くの選択肢が本質的な自由をもたらしていることを理解し、そして、そこから何をやるとしても、このエネルギーフィールドと調和することによってもたらされた喜びを携えていることです。

量子的なエネルギーフィールドの探求と、気功におけるエネルギーフィールドとの合一は、お互いに別の観点からのアプローチともいえますが、その世界観は似通っています。つい二十年前までは相反するとさえ思われかねなかった物理学と気功という二つの領域が、今、近づいてきていることは、大きな喜びであり、これからどのようにさまざまなエネルギー的現象が解明されていくのか、目が離せない状況です。

富田ショウ

 


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