現代社会において大勢である唯物主義こそ、もっとも宗教的でない人々ですらも、何かを崇拝したいという欲望を持っていることの確たる証拠だ。奉っているのは、モノだ。唯物論者は、非科学的な社会の人々よりも自分達が進んだ人間であると考えているようだ。他方、熱心な宗教主義者はといえば、自分の神々しいものの見方こそが正しいと信じて疑わない。実際のところ、公平に見ればどちらも間違っているし、どちらも正しい。
私がこの本で試みているのは、その中間の視点だ。私がどちらかに偏っているとわかれば、読者はそれを加味しておそらく当人自身の傾向にしたがって独自の意見を持つことになるだろう。何かを本当の意味で理解するためには、逆の視点から自分の意見を検証することが一番よい。
この本では科学と宗教を、どちらも統合された全体の一部であると捉えるようにしている。科学も宗教も、同じ「一なるもの」の中に存在する、対極の考え方に過ぎない。壁が壁であるのは、どちらか片側から見ているからだ。一方には、歴史や科学の進歩が記されていて、反対側には、さまざまな宗教の記録が読み取れるというだけの話だ。
創造にはただひとつの原理が存在する。ひとつだけなのだが、その大いなる原理を発見するためには、さまざまな道程が存在する。
人々にそうしたさまざまな道を提供する最たるものが宗教であるのだが、どういうわけか、どの宗派も持論を唯一のアプローチだと言ってはばからない。それ以外の宗派の手法を狂ったように非難する。科学もまた、あまたの分野に分かれており、各々が永遠の真理を発見したと公言している。
想像を絶する広大さを持つ無限の宇宙の中にあって、地球はただのちっぽけなチリのようなものにすぎない。そのチリに生息しているのが、寄生生物である人類だ。寄生生物は宿主に依って生きるものであり、残念ながら人間も地球に依存しないと生き続けられない。
宗教とは、「今」に生きる技術である。真の宗教家は、どうすれば他の生命を犯すことなく生きていくことが出来るかを知っているものである。自称宗教者は、あなたが死んだ後でスピリットになると言う。しかし実際は、あなたのスピリットは今ここにある。神は、今ここ、地上にスピリットが存在することの証として、あなたを肉体として生かすことに決めたのだから。
個々の意識には、その人がやってきた行為やその人の性格がすべて記録されているという。
私が受け取った情報の多くは、他の知的生命体から与えられたものだと思って間違いないだろう。さらに拡大して言えば、本当は私がかつてそれらの生命体であった、ということだ。
生まれ変わりとは、間違った言い方だ。すべては、かつてそれだったもの、あるいはこれからそれになるもの。みんな今ここにある。誰もが、創造の原初のときから、ずっと存在しているのだ。
地球上の人間の寿命の限界を認めようが、死後のどこかの生を信じようが、そんなことはどちらでもいい。どうせ前世を信じることなく死後の世界を本当の意味で信じることなど出来ないだろうし、この地球という教室は、永遠の生命の中のほんの一瞬の体験に過ぎないのだから。
まずは、自分自身を理解することからはじめるべきだ。すると仲間のこともわかってくるだろう。それが出来てはじめて、ようやく神を理解するための道程の入り口に立てたことになるのだ。
『7つの光の評議会』
ジョージ・W・ヴァン・タッセル著
(西村理 訳)
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