すべてが一つとなる体験(その2)~バイブレーショナル・ライフ


tomy20110311.jpg前回のつづき)

眼をつぶると、200m離れたホームの端の様子が、これも自分の体の一部としての様子が手に取るようにわかりました。人が歩いている、どんな服装で、何人、そんなことまで、はっきりと伝わってきました。

それを確かめるようにホームの端に眼をこらすと、反対側のホームに電車が入ってきました。ホームも自分の体ですが、電車も自分の体です。すごい勢いで、自分の体の中に、自分の体の一部が飛び込んできて、ゆっくりと、止まりました。あまりに不思議な感触に、思わず声もなく笑ってしまいました。

体に流れる快感は、なお続いていました。ゆったりとうねるような、大きな流れでした。普通に考えると、声をほとばしらせるような程の、体験したこともないような強い快感ですが、ただ身をゆだねているのが本来の姿のように感じられました。

この世界を構築しているものすべてが、自分と同一な存在であるという確信に満ちた時間でした。

歩く人や標識、ホームに落ちているごみや天井のすすさえもいとおしく感じられました。すべてがつながっていて、すべてに存在する理由があり、すべてに始まりと終わりがある、ということが、いっぺんに感じ取れました。

自分は人間を見くびっていたかもしれない、とまで思いました。これほど大きな喜びに代えるものはなにもない、と確信しました。

自分のホームに電車が近づいてきました。先ほどの強い快感が、幾分弱まっているように感じました。私は受け取るべきものを受け取った、と感じました。

少しずつ、自分の体が小さくなっていくようでした。止まった電車に乗り込み、次の駅、そして次の駅とすすむごとに、体が小さくなるのを感じました。駅から地上に出ると、光がまぶしく、いつもと同じようで、同じでない風景が広がっていました。

いつものようにスタジオに入って、いつものようにクラスを行って、その間に、体の感覚はもとの体に戻っていました。

あれから1年余り、再びこの体験は起きていません。

これは、恩寵であったように思います。

だれかが、宇宙の原理を垣間見せてくれたのでしょうか。あるいは私が、ふと次元の切れ目に迷い込んだのかもしれません。

どちらにしても、この体験は、自分のあらゆる側面を見つめ、自分に付着したすべてのこだわりを端から端まで見つめなおすきっかけとなりました。

自分が心地よいだろうとそれまで思っていた事柄をすべて超越するような体感をしたことで、それらを追求する動機そのものがフェードアウトしていきました。

期待や思い込み、こだわりや他からの価値観、様々なものが自分から離れていき、後に残ったものは、普段の静かな生活でした。

自分の価値体系をがらりと変えてしまったこの体験は、瞑想中ではなく、潅頂を受けてからでもなく、ただ、普段の生活の中で、なんの前触れもなしに起きました。このことは、自分にとって、この体験にもっとも近い意識と体の状態が、普段の生活の中にあるということを明示していると思います。

それゆえに、私にはこの世界での日々の生活が、とてつもなく尊いものに思えるのです。

人間の感性には無限の可能性があります。意識がエネルギーとして絡み合いこの世界を創り上げているように、作為の中にある無作為もまた、感性に影響を及ぼし、異なる次元で新たな世界を創り出し続けているのだと、そんなふうに思います。

富田しょう

 


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