これはまるで、真っ暗な空間の中に浮かぶ長い階段をのぼっているようなものです。
ここでは、あたりは漆黒の闇に包まれていますが、自分の歩いている足元と、ほんの少し先だけが、ほのかに明るくなっています。自分がのぼってきたところを振り返ると、そこは暗闇で何も見えず、階段が本当にあるかどうかさえわかりません。
どこまでも続くように見える階段を、足元の明かりをたよりに、そのまま、のぼり続けることもできます。
のぼり続けると、現在という瞬間が積み上げられ続けます。戻れば、過去と現在が交錯した世界に向かっていきます。どちらを選ぶかは、その人の自由意思に託されています。どちらを選んでも、日々、生活の中で、祈りは続けられていきますが、のぼり続けることは、自分の向かう方向性を明確にしていくことに他なりません。
祈ることは、今この瞬間と、その先に注力する行為です。祈った瞬間に、物質も、それを取り巻く環境も、変化を始めます。変容のエネルギーは、祈りをきっかけに、発動します。
あらゆる現象が、祈りをベースに起きています。個人的な祈りも物理的に変化を起こしますが、集合としての祈りは、もっとドラスティック(劇的)に、変化を促進します。ここでも、その祈りがどのような結果を引き起こしたかは、あまり重要ではありません。祈りは、個人的なものであっても、集合的なものであっても、その生命体の存在する方向性を定義するものであり、それが本質に見合っていればかなうし、見合っていなければかなわない、ということになります。そして、祈りは日々続けられます。
かなう祈りを続けるという生き方もあります。かなわない祈りを続けるという生き方もあります。どちらもひとつの生き方であり、かなったりかなわなかったりすることが、生きることの面白さでもあります。そして、どのように人生を方向付けをしていくかは、常に、日々の祈りの中で選択されているのです。
時として、向かっている方向性が、ないように、みあたらないように感じることもあります。しかし、足元には、常に明かりがともっていて、自分の今と、その少し先を、必ず照らし出しているのです。
生とは流れていくものです。人生における行為とは、その流れに乗って、祈り続けること、ただそれだけである、という風に感じています。
(富田しょう)
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