3次元意識で世界平和(中編)


cube20101112.jpg2次元の苦しみを、3次元で救う

前回の記事では、人類がアセンションすることで達する〝4次元意識〟に目が行き過ぎると、3次元という現実世界に害をなす可能性があることをお伝えしました。

3次元が実は高機能であり、素晴らしい次元であることに目を向けず、むしろ逃げたい場所だと決めつけてしまうと、物理的には3次元にいながら、意識的には3次元にすら達していないことになってしまいます。

それは、この世界はあたかも2次元以上、3次元未満の2.X次元であると言っているようなものだからです。

2次元の意識で3次元を生きることは、視点の高さを失った生き方に他なりません。人間、長く生きていれば、誰しもが道に迷い、人生に悩むときがあります。2次元に縛られて、3次元的に俯瞰して物を見ることができなければ、人生の迷路は圧倒的な障害として、目の前に立ちふさがるでしょう。

まず、2次元意識には高さの概念が無いですから、壁を乗り越えるという考え方があることすら認識できなくなります。迷路の出口は手探りで探すしかなく、出口までの距離も、現在位置すらもわかりません。そうなると出口に向かうより、同じ場所に留まっていたほうがいいという思考になってしまいます。留まるという行為は、より2次元的な思考を強化して、迷路から脱出できる可能性の芽をさらに摘み取ってしまうのです。

けれど、もし人生の迷路を俯瞰することができて、出口がどこにあるかわかっているとしたら、どうでしょうか?
悩んだり、思い煩うことはきっと少なくなるはずです。迷路を脱する時が近いことがわかっていて、出口に至る道のりがはっきりしていれば、所要時間が計算でき、食料や持ち物の準備も簡単です。先の見通しがたてば、心の負担も軽くなります。

このように、2次元と3次元では、視点の違いが思考の差となり、ひいては現実の差となります。まさに天と地ほどの差があるわけですが、高さという概念がない2次元では、目の前のことにしか思いを馳せることができませんから、その分自由度が低いのです。別の角度で見れば、人生に障害が起きやすいとも言えます。

2次元の思考から見れば、3次元の思考は、結論が先に見えているという点でカンニングに等しいですが、2次元的な人生の迷路に嵌りこむくらいなら、人生をカンニングしたとしても全く問題ないのです。むしろ、3次元に生きている人は、2次元の思考によって生じた問題に苦しんでいる人を3次元に引っぱりあげ、救う役目を担っていると考えるべきでしょう。

3次元へのアセンション

3次元意識で見れば、2次元では気づかなかった問題解決法も一目瞭然です。アインシュタインの言葉にもある通り、「問題と同じ次元ではなく、高い次元で解決する」のが一番簡単だということです。なぜなら、同じ次元では起こる葛藤が、高い次元では発生せずに丸くおさまるようになっているからです。一つ高い次元意識、と言っても僕たちの住む3次元意識のことですが、その視点で見れば、答えは「なんだ、出口はここにあったんじゃん!」「こんな簡単なことに気づかなかったのか!」と、呆気にとられることでしょう。

この発想を逆手に取れば、いま僕たちの身近に起きている諸問題も、解決する糸口が見えてくるのではないでしょうか。

つまり、何か現実的な問題が起こったら、自分が実は2次元にいると認識して、3次元の解法を採用してしまうということです。

人生で辛いことがあった場合、「出口は必ずある。僕に見えてないだけ」「解決法は、単純な方法に決まっている」と、カンニングした結果を先に採用してしまう、というわけです。

例えば、僕たちが人間関係で悩んでいるとします。目を覆いたくなるような相手の言動に、もううんざりしている状態です。その相手を「この人、絶対おかしい」「なんでこの人にこんな目に遭わせられるの?」と思ったとします。

しかしこの思いは、とても2次元的な発想からきたものです。おそらく、その相手も二次元的な意識だからこそ多くの人に迷惑をかけてしまっているのでしょうが、相手の次元を真正面から受けているとしたら、僕たちも同じ次元に留まっているという、何よりの証明でもあります。

この固定化された2次元から脱するために、3次元の解決法を積極的に採用するのです。

「この人は、こんなことでは他でも迷惑をかけているはず。嫌われて、誰も近づかないだろう。ということは、一番辛いのは、当人かも知れない」「この人がこんなになってしまったのは、何かきっとわけがあるに違いない」「人間関係を上手にこなす技術を教わる機会がなかったのかも知れない」

などなど、うんざりする相手だとしても、その人の状況を俯瞰する目線があれば、むしろその人も学びの途中であり、苦労しているであろうことが読み取れます。つまり、僕たちも人生につまずくことがあるように、うんざりな相手にも人生においての迷い、つまずきがあるのです。この視点で思いやることが、いずれお互いを思いやる気持ちに育っていきます。これが、3次元に生きることなのだと思います。

相手をいたわる心に、「どうしていたわらなくてはならないか?」といったロジックは必要ありません。なぜなら、すでに相手は人生で苦労をしています。それは、わざわざ苦労話を聞かずとも、自明の理なのです。2次元で生きてきたから、不自由で、苦しかったに決まっています。

2次元から3次元への視点の切り替えは、いま現在起こりつつある4次元以上への〝アセンション〟の凄まじさには到底かなわないかも知れません。4次元空間には、3次元の立方体を超えた〝超立方体〟が存在するそうですが、3次元に生きる僕たちには、そんな立方体を想像することすら困難です。

しかし、2次元から3次元へのアセンションには努力はいりません。「ああ、そうなのか」と、俯瞰した目線で物を見ればいいだけです。高い視点とは、いわゆる鳥瞰図の視点ですから、僕たち人間も容易に持てるはず。現にナスカの地上絵は航空機のない時代に描かれましたが、この事実は、当時の人間は空を飛んだ実体験のない2次元的な存在でありながら、先天的に3次元の視点が備わっていたことを物語っているのではないでしょうか。

次回は、今回取り上げた3次元での「相手へのいたわり」をベースに、世界を平和にするより具体的な方法に触れていきたいと思います。

(つづく)

ブラフマン・リー


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