批判的想念とは、ある事柄についてそれを批判的な態度で判断し、反応するときに発せられる思考的なバイブレーションです。
日常には、ときに理不尽なことがあったり注意を促したくなる事柄や、怒りを喚起するものなど、批判的想念を伴う感情が沸き起こることがあります。
批判的想念がひとつ芽生え、それを表出し、その状況に批判的なバイブレーションを投げかけると、その人の幸福の度合いは、下がってしまいます。これは、批判的想念が生じたときに、その環境、状態に対して、「満たされていない」というバイブレーションが生じてしまうためです。批判的な態度をとるということは、それと引き換えに、自分の幸福を手放していることであるといえます。
そうかといって、批判的想念がまったく必要のない、ないほうがよいものであるかといえば、そうとも言い切れません。批判的想念が発するバイブレーションが促す変容の力は、変化を必要としている状況にとって、そのきっかけとなる重要な要素となるからです。
ですから、むしろ積極的に、変化をうながすために有効な批判的想念のエネルギーを用いるような状況に出くわすこともあるかもしれません。自らの幸せをなげうってでも変化を望む、そうしたときに、批判的想念はもっとも効果的にその状況に働きかけ、変化を引き起こしてくれるでしょう。
では、批判的想念が自分に対して向けられたときはどうすればよいのでしょう。
マヤとコンタクトし、愛に満ちたメッセージを伝え続ける伝道者でありセレモニストである、アリエル・スピルスバリーさんはこう言っています。
“もしあなたが自分を批判する人に出会ったら、それを認めなさい。ある人がそれを言うということは、その要素があなたにほんの僅かでもあるのかもしれません。あなたの一生を振り返れば、一瞬でも、その方向に意識が傾いたことがあるかもしれません。それを認めることで、状況は必ず、変化します。”
批判を認めると、その相手との関係性が変化します。相手を受容することで、相手の中にある「満たされなかったもの」が満たされ、状況に劇的な変化が起きることがあります。これは、今起きていることに絶対の信頼を置いている、『愛の手法』と呼べるかもしれません。
日常の生活を送っていると、さまざまな方面で、軋轢や、障害が生じることがあります。その根底には、多くの場合、「自分は無価値である」という観念があると思います。批判を向けられたときに、それは「関係性の変化を求められている時だ」ととらえる事ができれば、より大きな視点で、その出来事を俯瞰することができるのではないでしょうか。
批判的想念、このバイブレーションは、集合意識としても、作用します。幾人もが同じ批判的想念をある状況に投げかけることは、より早く、そしてより大きな変化をその状況にもたらすことになります。
たとえばそれが社会の理不尽さに対する義憤であっても、電車のなかで携帯電話で話す人に対するものであっても、批判的想念はその批判の度合いに応じて幸福を低減し、変化への促進剤として作用します。
もし幸福は最上のものであり、減らすことはどうあっても選択したくないということならば、批判的な態度、観点をできるだけ自分の中から遠ざけることが重要です。逆に、もし現状に変化を望むのならば、それに見合っただけの批判的想念を創出することが、変化を起こす有効な手段となりえるのです。
批判的であること、あるいは、どの程度批判的であるかということについて、誰もがその状況ごとに、選択することができる、ということはとても重要なことです。それは、批判的想念、バイブレーションを発動する自由であり、変化に向けての要望をエネルギーフィールドに投影する自由であるといえます。
批判的想念と幸福が相関関係にあることを理解したうえで、その二つの間にある、バランスのよいポイントを探ることは、自分にとっての現実世界における立ち位置を定めることでもあると、そのように思うのです。
(富田しょう)
コメントを残す