人はだれでも、色々な場面で自分を表現しています。
家に一人でいるときの自分と、仕事をしたり、他の人と一緒にいるときの自分は違っているようなことは、よくあることです。誰と一緒にいるか、それがどのような過去の体験に基づいているかによっても、自分がその場所、その環境でどのように振る舞うか、といったことが変化していきます。
こうした、色々な環境によって生じる、様々な自分の表現やあり方を、意識がある設定に基づいてその範囲内である種の役柄(ロール)を演じていく様子になぞらえ、意識の劇場と呼ぶことにします。
意識の劇場は、様々な形で、時に数多く存在します。
現実的なあるシチュエーション、生活の一場面を、「シーン(scene)」と表現することがありますが、このシーンは、意識の劇場が表出する典型的な場となります。
一人か、それ以外か、という観点でみると、家族なども含めて、所属するコミュニティによっても、自己の表現には多様性があり、そのそれぞれの場において意識の劇場が存在しうると考えられます。
人によっては、一人でいるときに、意識の劇場が存在します。自ら、「自分はこうあるべき」と考えて、一人で行動するときなどがそれにあたります。
通常の生活においては、誰もがいくつかの意識の劇場を持っていると言えます。日常の場面が移り変わっていくなかでその場に応じて的確に対応したり、その場に見合った自分で居続けるための意識的な設定事項をツール的に用いている、というようにとらえることもできます。
意識は、その人の根本となる自分の姿、あるいは本質的な自己、と呼べるような様態から、ある劇場に移行し、その劇場からまた自己に戻り、また次の劇場に移る、ということを日常的に繰り返しています。
心身ともに健康な生活を送る上で重要なことは、このいくつかの劇場と、本質的な自己との関係が密接で、かつ全体的に調和がとれているということです。
ある劇場があまりにも本質的な自己から離れていたり、劇場の数があまりにも多くなると、不調和が起こりやすくなります。特に、劇場の数が増えすぎると、意識が本質的な自己に戻らずに劇場から劇場へと渡り歩くようになり、本質的な自己を見失ってしまうことになりかねません。
これはたとえば、インターネット上で、多くのSNSやコミュニティに所属し、それぞれのIDとパスワードでログインし、ある程度の自己表現を行い、ログアウトする、という行為を繰り返すことと似通っています。ネットから離れたときに、人は元の自分、肉体を持った総合的な存在に戻るととらえると、ネット上でログインとログアウトを繰り返している状態は、元の自分に戻らずに過ごすということになります。
これは、先ほどの不調和でいうならば、現実世界の劇場から劇場へと意識が乗り移っていき、本質的自己に戻ることがない状態ととらえることができます。
劇場そのものは生活上のツール、一つの様式であるにもかかわらず、劇場間を移行していくだけの生活を送っていると、本来の自分のあり方を見失ってしまう可能性があります。
しかし、たとえ本質的な自己を見失ってしまったとしても、それは必ず自分の中心にあり、ただ隠れて見えなくなっているだけなので、それをまた見いだしていくプロセスが重要となってきます。
(つづく)
(富田しょう)
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