アセンションの指導者(前編)

lee0613.jpg先生とは誰のこと?

あなたにとって、先生とは誰を指していますか?  学校で授業をしてくれた教師や仕事上の上司、そして自分の人生に影響を与えた本の著者など、いろいろな人物が思い当たるかと思います。さらには政治家や医者といった社会的地位の高い人もその範疇に入るかも知れません。総じて言えるのは、現代社会では目上の人を先生と呼ぶことが多いですし、それが一般常識にもなっているということです。


しかし、目上の人だけを、そして自分に学問や仕事を教えてくれた人だけを先生と呼ぶべきなのでしょうか。例えばサッカーのような部活動において、顧問の先生や先輩から指導を受けつつも、自分が後輩を指導する役割を担うことがあります。

教えたことを実践してくれるのは後輩です。指導したことがきちんと伝わっているか、言い換えれば伝えかたが正しいかどうが、指導する側は後輩の存在によってしか、それを確かめる術がありません。

また、後輩にもともと才能があって飲み込みが早ければ、指導の質にはあまり影響されず、どんどん上達するでしょう。しかし、才能のない後輩を指導する場合は、指導する側も工夫を凝らす必要が出てきます。効果的に指導するためにわかりやすい言葉を選んだり、弱点を分析したり、トレーニングにつきあったりと、後輩を上達させるためにさまざまな方法を考え、実践することでしょう。

後輩を育成するために知恵を絞り、汗と涙を流した経験が、後輩はおろか自分の指導力を磨いてくれるのです。もしかしたら上達しないことで、自分が指導者に向いていないという答えをくれるかも知れません。そう考えたとき、後輩はまったくの無意識ではあるものの、指導者である自分を鍛えてくれた先生であると言えるのではないでしょうか。

すべての出逢いには学びがある

これは家庭での育児や、職場での新人教育にも当てはめることができます。何もできない赤ちゃんを育てるとき、会社で全く仕事を知らない新人に仕事を叩き込むとき、相手はなにもできないという役割を全力で担い、自分を鍛えてくれているのです。「先生」という漢字を読むと、「先」に「生」まれたことを指しているのがわかります。つまり、先生とは年長者を示しているのですが、これでは年長者の身分が高くて、若年者の身分は低いということになってしまいます。

しかし先にも述べたように、私たちは年が若い人からもたくさんのことを学び、成長させて頂いているという事実があります。あらゆる局面で出逢うすべての人が学びを提供してくれる以上、年上の人物に絞って敬うのは、実は差別的な行為なのです。

もちろん、人生の先達である年上の方々は、敬うべき対象です。また、高齢者を労ることも、とても大切なことでしょう。ただ、年上を敬うかわりに年下の人間を低く見たり、顎で使ったりするのは、正邪や勝ち負け、損得といった、これまでの二元性に満ちた世界と何ら変わらない価値観なのです。

(後編につづく)

ブラフマン・リー


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